橋立ベイホテル
〒629-2262 京都府与謝郡与謝野町字岩滝68
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与謝野旅行記
城崎温泉/外湯を楽しもう。(by けーしちょーさん)
城崎温泉。
日本海側にある温泉。
山手線に轢かれちゃった志賀直哉が湯治に訪れた温泉。
乏しい知識から導きだした先入観は「隠れ宿」
わが地元、埼玉県は「温泉の無さ」に関しては日本一である。
んにゃ、「であった」と言い直すべきか。
県内どこを探しても「秩父の山に鉱泉どまり」の「温泉飢餓」は、郵便局の積立、農協の積立、近所どうしでの積立、そのいずれもが「温泉旅行」をゴールに見据えた流れは、祖母の時代から連綿と続く地元の伝統である。(別に強制ではないんですよ)
草津、伊香保、水上、鬼怒川、湯西川。
近隣の温泉地には「行った事ある」だけには収まらず、「行き過ぎて飽きた」と言いながらも再訪の手を緩めることは無かった。
地元として愛でる温泉が無い以上、比較的ニュートラルな視点で温泉地に評価を下してきた県民といえるのではないか。
そこへきて、昨今の「スーパー銭湯ブーム」である。
なかったハズの温泉が、地中深くボーリングすれば、埼玉県でも出るという驚きと喜び。温泉飢餓状態から脱した訳である。
だが、問題が起こった。
長く続いた温泉飢餓状態を脱した県民は、手放しでスーパー銭湯を礼賛してしまったため、スーパー銭湯の乱立を招いたのである。
どの市町村にも「スーパー銭湯」ができてしまった。
いまや「源泉がぬるい」だの「かけ流しぢゃない」だの「シャワーがいまいち」だの「ミストサウナが無い」だの、果てはロッカーや下足箱の100円投入の有無に至るまで、比較対照物件が増えてしまったことによる「風呂屋の薀蓄語りだしたらとまらない県民」の誕生である。
そんな風呂屋薀蓄県民からみた城崎温泉。
満足でした。
イル・ド・フランスの駅(by スキピオさん)
駅は人をわくわくさせる。
駅は旅の出発点だ。
リンゴをひとつバッグにねじ込んで、列車に乗るのが好きだ。
車窓の景色に目を奪われているうち、いつのまにか別の駅に着く。
こうして世界はひとつひとつ広がり、人とひとりひとり知り合いになる。
でも駅は、人と人の別れの場・・・
【廃線となり、今は使われていない「サンリス駅」】
こんなきれいな駅、もったいないですね。
パリとパリ周辺の駅を写真に収めました。
昭和記念公園・君もコクリコ、われもコクリコ(by コクリコさん)
今年3回目の昭和記念公園です。
少し見頃は過ぎていましたが、みんなの原っぱのシャーレ−ポピーを見ることができました。
ああ皐月 仏蘭西の野は火の色す
君もコクリコ(雛罌粟)われもコクリコ(雛罌粟)
与謝野晶子
モネのコクリコの絵のような野原一面に咲いた赤いひなげしを見たいと思いました。
【旅行時期】2006/05/29~2006/05/29
【エリア】
立川
【テーマ】
花見・紅葉
【投稿者】
コクリコ
日本の旅 みちのく文学を辿る【8】 石川啄木が愛した街 函館(by さすらいおじさんさん)
石川啄木(1886−1912年) は1907年の5月から9月まで函館で生活していた。函館では代用教員や「函館日日新聞」の遊軍記者などを勤めながら小説「漂白」を書いたり、文芸雑誌を編集したりしており、啄木にとってはかなり充実していた期間だったらしく後に「死ぬときは函館で死にたい」と語っている。啄木の言葉通り石川啄木一族の墓地は函館山の中腹、立待岬への途中の津軽海峡が美しく見える場所にあり有名な
「東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる」
の歌碑もある。
石川啄木一族の墓地の近くには啄木とも親交があり函館を訪れた与謝野晶子(1878−1942年)鉄幹(1873−1935年)の碑がある。鉄幹と晶子は浪漫主義文学運動を展開し1901年に結婚したが晶子の処女歌集「みだれ髪」では、女性が自我や恋愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに謳い、歌壇に衝撃を与えている。特に代表的な歌
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
は晶子が傾倒した「源氏物語」が示した女性の自由で豊かな感情表現を、文明開化の明治時代に取り戻そうとした革命的な挑戦と言えるものではないだろうか。
1904年には日露戦争の旅順攻囲戦に出兵していた弟を嘆いて「君死にたまうことなかれ」を「明星」に発表。文芸批評家大町桂月などからは、「賊子」と批判されるが晶子は堂々と反論し揺るがなかった。
「君死にたまうことなかれ」
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
日本が国民皆兵を掲げ、大陸進出を目指した時代に本音で堂々と反戦の詩を詠んだ晶子の勇気には頭が下がる。
五稜郭は日本初の洋式城郭で五つの稜が星形に突き出ているため五稜郭と呼ばれた。幕府が北方防備のためにヨーロッパの城を参考に蘭学者武田斐三郎の設計で1857年から7年がかりで築造したが、皮肉にも戊辰戦争の最後の内戦「箱館戦争」の舞台となった。1868年、大政奉還に不満を持った幕臣・榎本武揚、新撰組副長・土方歳三らがここを占拠し政府軍に反攻するが、土方歳三は戦死、翌年5月に榎本は降伏・開城し、「蝦夷共和国」建設は果たせなかった。もし「蝦夷共和国」ができていれば日本の歴史は変わっていただろう。公園の入口には五稜郭タワーがあり、地上約50メートルの展望台からは五稜郭が美しく見える。
函館山は標高334メートル、周囲9キロメートルの死火山で牛が寝そべっている姿に似ているので臥牛山(がぎゅうざん)とも言われる。夜景は香港、ナポリをしのぎ世界一との評価もあるが、確かに見事な夜景だった。
函館港から下北半島の大間までフェリーに乗った。函館シーポートプラザでは1988年まで運航し、仕事を終えた青函連絡船・摩周丸を見ることができた。函館は北島三郎の「函館の女」をはじめたくさんの演歌に歌われているが、石川啄木が愛したように郷愁を誘う魅力のある街だった。
(写真は五稜郭タワーから見る五稜郭)
137百舌鳥八幡宮(by ひらけんさん)
大阪府堺市百舌鳥赤畑町5-706 11時からの古式弓道射初式をはずして、阪和線で百舌鳥駅まで行く。少し迷いそうになりながらも、地図を見ながら直ぐ修正して無事に到着した。立派な本殿だ。光明院という少し先の寺院にも足を伸ばして、大仙公園・仁徳天皇稜を目指した。公園近くで面白い光景に出くわした。折れた橋がまず目に入った。更に人が何か投げて動物が群がっている!イノシシ?サル?何?